石井琢朗。。

2017/09/22

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プロ入り前[編集]

小学校3年生から野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す[2]。プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え[3]、栃木県立足利工業高等学校に進学。1年時から背番号1を背負い[4]、2年時に夏の甲子園に投手として出場[2]

高校2年時、佐野日本大学高等学校の投手を見に来ていたスカウトの江尻亮が、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ[2]。高校3年時のドラフト会議では東洋大学への進学が決まっていたため[3][5]どの球団からも指名されなかったが、半ば強引な形で1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団[5]

大洋・横浜時代[編集]

高卒1年目の1989年4月13日、広島東洋カープ戦で一軍初登板。同年10月10日のヤクルトスワローズ戦で初先発初勝利を挙げる[5]。首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが[6][5]、二軍では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人も篠塚和典にあこがれるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目のオフに須藤豊監督に野手転向を申し出る。須藤監督は激怒をし一度は拒絶されたものの、最終的には認められた[7][3][5]

1992年から内野手として登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から石井琢朗に変更。シーズン後半には野手転向1年目にして清水義之から三塁手の定位置を奪った。

1993年、チーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を0に変更。2番・三塁手としてレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得した。ゴールデングラブ賞は以後、1995年まで3年連続で受賞することとなる。

1994年には背番号を5に変更。主に2番打者として出場し、フル出場を果たす。1995年は日替わりで1、2番を打ち、初の打率三割を記録した。同年のオールスターゲームに初出場。

1996年、新監督に就任した大矢明彦の意向により、遊撃手に転向した。慣れない守備に意識を奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者に定着。タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越えを記録した。

1997年は2番打者・波留敏夫との1、2番コンビが定着。2度目のオールスター出場を果たし、この年以降オールスターには5年連続して出場することになった。自身二度目の打率三割を記録し、初めてベストナインを遊撃手部門で獲得する。

1998年、選手会長に就任。マシンガン打線の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した。初の最多安打と2度目の盗塁王のタイトルを獲得し、遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目のゴールデングラブ賞を受賞。同年の日本シリーズでは優秀選手に選ばれた。103得点を記録し、松井秀喜と並んで球団創設以来初となる最多得点を獲得する。

1999年には通算1000本安打、1000試合達成、200盗塁達成。このうち、7月15日の阪神タイガース戦で記録した1000本安打は、勝利投手の経験がある選手として史上10人目の記録であった[8]。ロバート・ローズが1試合10打点を記録した7月22日の対ヤクルト戦で、1試合最多得点のセントラル・リーグ新記録となる6得点を記録、自身初の一試合2本塁打も記録した。

2000年は盗塁王、2001年には2度目の最多安打を記録するなど安定した成績を残し、遊撃手として1997年から5年連続でベストナインを受賞した。

2002年は140試合に出場したものの打率は8年ぶりに2割8分を下回り、2003年は1992年以来の100安打未達を記録。打率.231は野手転向後では最悪の数字となった。スターティングメンバーから外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ちを志願した[3]

2004年は2001年と同じ打率.295の成績を残し、3度目の2桁本塁打も達成するなど復活を果たした。だが2005年は、全146試合に1番ショートでスタメン起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は.255に落ち込むなど再び低迷した。

2006年5月11日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦の第1打席で愛敬尚史投手から中前打を放ち、史上34人目の2000本安打を達成。名球会入りを果たす[9]。投手として勝ち星を挙げた選手としては川上哲治以来史上2人目、またドラフト外での入団選手としては秋山幸二以来2人目の達成となる[3]。その後、8月12日の対ヤクルト戦で、石川雅規から安打を放ち松原誠の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。この年は打順こそ2番、3番打者として起用された試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場。最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せるなど再び復調を果たした。

2007年は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢明彦は石井を無理せず休ませると公言。4月1日の巨人戦の6回の守備で石川雄洋と交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手では金本知憲に続く2位の339試合で途切れた。また、巨人から移籍した仁志敏久が1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。9月5日、阪神戦(阪神甲子園球場)の第一打席で死球を受け、右手首を骨折。9月中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。

2008年は開幕戦から再び1番打者で起用されたが、成績が芳しくなかったため5月頃からは7番~9番打者で起用されることが多くなった。同年夏に開催された北京オリンピックの野球日本代表にチームの正三塁手だった村田修一が選出。村田がいない間、若手の石川雄洋が三塁手に定着したが、最下位を独走するチーム状況を鑑みた大矢監督の若手起用の方針もあり、村田復帰後も石川は遊撃手にコンバートされ、石井はスタメンでの出場が激減した。そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。石井は勧告を拒否し、現役続行を希望して球団に自由契約を申し出た。国内外を問わず移籍先を探していたが、11月12日、広島東洋カープが石井獲得を発表した[10]

2008年11月29日、自費で横浜スタジアムを借り切り、ファンへの感謝を表すイベントを開催した。主催者発表によるとファン3500人が参加し、オークションではユニフォームが20万円以上の値で落札された。石井は「これを区切りにして、広島で優勝できるよう頑張りたい」とコメントした。

広島時代[編集]

広島1年目の2009年は開幕一軍でスタート。本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる[10]。横浜時代の応援歌が親しみやすく人気があったため、横浜応援団の計らいもありカープへの移籍後も広島応援団が引き続き使用した。7月4日対横浜7回戦にて、横浜スタジアムで通算100本塁打達成。2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録であった(従来の記録は東映・毒島章一の1773試合。またプロ在籍年数ではヤクルト・八重樫幸雄と並ぶ21年目で、最遅タイ)。移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られ、100号本塁打達成時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。7月17日の対横浜戦では、吉田義男(阪神)を抜き日本歴代最多となる遊撃手としての通算1731試合出場を達成。シーズン前半は梵英心、後半は小窪哲也と併用され出場試合数と打撃成績は前年を下回ったが、一年を通して一軍でプレーした。

2010年も年間を通して一軍に定着。スタメン出場は少ないものの打率は3割を超えた。7月4日の対横浜戦(マツダスタジアム)2回裏、落合博満を抜きプロ野球歴代単独10位の通算2372安打となる中前打を放った。この年の契約更改では200万円アップの年俸2700万円(推定)で契約し、広島移籍後は2年連続で年俸アップを勝ち取った。

2011年は前年より成績を落としたが、引き続き存在感を見せた。10月17日に右膝のクリーニング手術を受ける。オフの契約更改では2012年から一軍野手コーチを兼任することが発表された。

2012年は、一軍コーチ兼任選手として開幕からベンチに入り、6月まで代打を中心に試合に出場。7月9日に選手登録を抹消され、コーチ専任となって一軍に帯同していたが、8月27日記者会見を開き、2012年シーズン限りでの現役引退を表明した[11]。同年シーズン本拠地最終戦の9月30日の対阪神戦(マツダスタジアム)、引退試合として1番・遊撃手で先発出場。現役最後の安打を含む2安打を放つ[12]。その後も一軍登録は抹消されずに10月7日の対ヤクルト戦(神宮)では9回に代打で出場(結果は右飛)[13][14]。翌10月8日、シーズン最終戦となった古巣の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、三浦大輔と金城龍彦から花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。試合では1番・遊撃手として先発フル出場し、現役最終打席はセンターフライとなった[15][16]

引退後[編集]

2012年の秋季キャンプより、広島一軍内野守備・走塁コーチを務める[17][18][19]。一塁ベースコーチも担当している。